正川子葉のライフヒストリー

幼少~学生時代

幼少~学生時代 1

和25年2月18日、大阪府八尾市に父常夫、母シヅ子の次女として生まれました。
父親は自動車修理工場を経営しており、お客様とは1対1で向き合う誠実な姿勢で日々仕事に取り組んでおりました。その成果もあり、会社の営業成績も順調に伸び、裕福な生活の中で楽しい思い出の多い幼少時代を過ごさせて頂きました。両親が共稼ぎであった為、小学校入学前までは祖母が家事や身のまわりの世話をしてくれ、穏やかで明るい家庭生活でありました。しかし、祖母が亡くなった後は3歳年上の姉、4歳年下の弟と力を合わせて、風呂焚きや掃除などの家事全般を連携してこなしておりました。
両親の性格は正反対、父親は子どもに怒ったことがないほど優しい性格で、誰に対しても感謝して頭を下げるような人柄でした。母親は、心根は優しい人ではありますが、厳格な性格でプライドも高く、その上負けず嫌い、常に目標や結果を求める人でした。特に弟は、子どもの頃より「総理大臣になるんやで」と言って育てられ、そのような教育方針の成果か、最終的に社員数700人を擁する八尾市を代表する企業を、一代で築き上げることになりました。
私自身、読書が趣味で勉強好きな姉とは対照的に、幼い頃より近所の友だちを集めてはお芝居をするなど、芸事が好きな女の子でした。目立ちたがり屋で、笑顔を絶やさないことにも心掛けていたので、学級委員選挙のときには愛想を振りまいて、クラスの関心を惹き寄せることにより、学級委員に選ばれることもしばしばありました。

幼少~学生時代 2

私自身、読書が趣味で勉強好きな姉とは対照的に、幼い頃より近所の友だちを集めてはお芝居をするなど、芸事が好きな女の子でした。目立ちたがり屋で、笑顔を絶やさないことにも心掛けていたので、学級委員選挙のときには愛想を振りまいて、クラスの関心を惹き寄せることにより、学級委員に選ばれることもしばしばありました。
本名が「池田あや子」、出席順は女子で1番であったことが多く、そのままクラスの女子代表になることも多かったので、人前でも物怖じしない経験を積ませて頂けたように思います。 小学校4年生の時、人生の転機の一つといえるエピソードに遭遇します。学芸会の主役とヒロインを選ぶ際、主役には憧れの男の子が決まり、ヒロインを決める際、先生より「池田」と呼ばれたので自分が選ばれたと思い、元気よく「はい!」と応えた結果、「可愛らしい方の池田や、お前じゃない」と言われ、とてもショックで心に傷を負う出来事になりました。
当時、クラスに私と同姓の女の子がおり、彼女はいつも可愛い服を着せてもらっていたので、ヒロインには彼女が選ばれて当然でした。当時を振り返ると、私の服装は地味で、母親が縫ってくれたスカート、又編んでくれたセーターを着ることが多かったので、見た目で比べられて決められたようにも思い、余りの悔しさに人目も憚らず泣き出したのを鮮明に覚えています。 このエピソードでの悔しさから、必ず先生を見返すのだという気持ちが強く生まれ、いろいろなものに興味を持つことで、「美意識」を高めることに全力を注ぐようになるきっかけ作りとなりました。それ以来、見ること、聞くこと、触ること全てにおいて、何でも興味を持ち、自分の感覚の中に取り入れていくことに注意を傾けました。今では、そのきっかけをくれた先生に感謝できる自分になれたことが嬉しく、そのお陰で今の正川子葉が出来上がったといっても過言ではありません。

幼少~学生時代 3

その後、大阪の進学校である四天王寺高校に入学、幼稚園の先生になることを夢見て勉強に打ち込でいた高校3年生の時、第2の転機が訪れます。その年の2学期の終わり頃、正月前に最愛の父親が吐血します。職業柄、常にお客様とお付き合いでお酒を飲む機会も多く、それが原因で、戦争で痛めた肝臓が悪化し、突然、入院する事になりました。父親っ子だった私は、父親の体のことが心配で、学校を休み看病に専念することを決意しました。父親も、もし退院できたら大好なお酒をやめると約束をしてくれ、数ヶ月間、父子の思い出となる日々を過ごさせていただきました。
高校最後の3学期は全く学校に行かず、毎朝5時に起きては近くのお宮にお参りしたり、また病気に効くという噂を聞けば、遠くのお寺や神社に参ることもありました。
しかし、懸命の看病の甲斐なく、私の満18歳の誕生日の朝に、父親は46歳の若さで帰らぬ人となりました。大好きだった父親の亡くなった日が、あろうことにも私の誕生日だったということで、それ以来、「私には、誕生日という祝日はやってこない」と思い、それ以来、誕生日の祝い事はしなくなりました。以後、「夢を実現する」ために生きることに、全力を注いで行こうと強い決意をしました。 子どもが大好きで、幼稚園の先生になりたい一心で勉強に励んでいましたが、父親の死去により、大学進学を断念しなければならなくなりました。そして、姉と一緒に父親の自動車修理工場を継ぐこととなります。

甦る絆 池田常夫50回忌記念
正川子葉

社会人時代

1. 家業(自動車修理工場)継承時代

高校卒業直前に父親が亡くなったので、当時、まだ弟が中学1年生で、なんとか高校を卒業するまで、姉と一緒に経営権を継ぐことになりました。自動車を扱う仕事は、男性がメインの職場、経営者といえども、洗車と掃除が主な仕事でした。時に回収が難しい集金にも、一人で行かなければならないことも多々ありました。数年間、朝早くから夜遅くまで、暑い日も寒い日も作業服を着て仕事に励む日々が続きました。年末年始、女の子が着物等で着飾る季節に、周りの人たちの服装と自分たち姉妹の境遇の違いに、私たちは悲しい思いも多々経験しました。
結局、夢であった幼稚園の先生にはなれず、子どもと接する仕事がしたいという思いは消えることはありません。学歴がなくても、「先生」という仕事はないかと模索する中、中学時代に「書道」で大賞をいただいた記憶が蘇り、家業の継承から数か月後、家業の経営と並行して、新たに書道塾の門をたたくことにしました。

社会人時代 1

2. 書道塾助手時代

18歳の秋、私の人生の唯一の先生となる北谷大邑先生の書道塾を訪れます。先生は、私を妹のようにかわいがってくれました。そこで「教えることも勉強だ」と、初めから先生のお手伝いをさせて頂き、書道を通じて大好きな子どもたちを教え、育てる仕事に就くことが実現しました。それからの日々は本当に楽しく書道の先生として、充実した人生を過ごす基礎を築くことが出来たのです。

社会人時代 1

起業~現在

1. 『子葉学院』 (1968年 ~ 現在)

19歳のときに、『子葉学院』という法人を立ち上げます。商売人の子として育ち、誰とでも仲良く笑顔で接することが自然体で出来、評判が評判を呼んで、口コミで大勢の生徒が入ってくれることになります。「書」は一発勝負のところもあり、そのような中での度胸が、この大勢の生徒さんによって養われました。はじめは、生徒もいとこ1人だけだったのですが、35歳の頃には2,500人にまで増えました。また、子どもたちに教える姿や、生徒を大勢集めるのを見て、書道家の先生方の中で評判になりました。当時の私は母親の教育の影響で、やるからには結果が出るまで妥協をしない性格でした。しかし、人と衝突することが苦手で、情に深い気質も持ち合わせていましたので、字が上手だからというのではなく人間の魅力で大勢の方が参画してくれたのかもしれません。
私自身、性格的に物やお金に執着するタイプではありませんが、事業の成功を第一と考え、生徒のニーズと利便性の良い場所をとの思いで、近鉄沿線に活動を広げて行きます。振り返りますと、13度の引越しを重ね、その都度、教室が増えて、生徒数が増えていくに繋がったように思います。 23歳のとき、高校時代よりお付き合いをしていた建築会社に勤めている男性と結婚することになります。家庭的な面も大いに手伝い、主人に対しても一生懸命仕え、ただただ主人の出世を第一に考え、家庭の中では主人と一度もケンカすることなく、穏やかな生活を送る事が出来ました。

19歳で、「子葉学院」を設立

35歳の頃、学院の全盛期を迎え、「この世に金のなる木がある」と怖くなり、奈良県當麻町に家を新築することにしました。しかしそれも束の間、一世一代の「夢の御殿」も全く予期しない出来事に遭遇し、一瞬にしてなくなるという結果になりました。それまでケンカひとつしなかった主人とも別れることになり、大切な家までも無くなり、家庭が崩壊します。その時に、神事に詳しい福井先生という方にご縁を頂き、いろいろと相談に乗って頂く中に、「思ったことは必ず実現する、だから夢を捨てないで頑張りなさい」という『想念』の世界を教えて頂きました。同時に、ゼロになる事を言われ、ゼロにならなければ不思議が起こらないとも言われました。先生のご指導を忠実に実行した結果、約2年後、それに勝る物件と活動の場を手にする事が出来たのです。また、福井先生は「私の体の中に7人の書道家の守護霊が憑いている」と評価をして頂き、それも大きく正川子葉を育てる結果になりました。 いろいろな苦難を乗り越えることができたのは、幼い頃に父親に教わった「誰に対しても親切にしなさい、誰に対しても頭を下げなさい」という教えも根底にあったからでしょうか?

「想念」を教えてくれた福井先生の写真/不思議と2年後に手に入った想念の家

父親を早くに亡くし、家庭生活に憧れを抱いていた私は、離婚してまもなく、結婚を約束する関係まで進展した方との出会いがありました。お互い信じ合い、求め合い、入籍の準備段階にまで進みましたが、前妻との婚姻関係が解消できなかった為、再婚には至りませんでした。その後、その男性が余命3か月の癌を患っていたことがわかり、身内には大反対されましたが、敬愛する人の為との思いが打ち勝ち、共に病気に向き合い頑張る事を決心しました。その甲斐あって、3年程生きることが許され、大切な時間を過ごすことが出来ました。亡くなるまでの前妻とその家族の事を考えますと、私たちが出会ってしまった結果において、大変寂しい思いをさせてしまい、又、大勢の廻りの方々を巻き込んで心配をかけた事において、申し訳なく思っています。 私たちにおいては、共に懸命に生き、死と向きあい頑張ろうとした事に後悔はありません。むしろ満足と感謝の思いでいっぱいです。生まれ変わる事が出来るなら、今度こそ祝福される結婚をし、良き家庭を持ちたいと願うばかりです。

彼の死後、悲しみのあまり、ストレス太り/わずか1ヶ月半で、14kgのダイエットに成功

新しい人生の始まり

その後、「紅時雨」という素敵な曲に出会う。

父親を早くに亡くし、家庭生活に憧れを抱いていた私は、離婚してまもなく、結婚を約束する関係まで進展した方との出会いがありました。お互い信じ合い、求め合い、入籍の準備段階にまで進みましたが、前妻との婚姻関係が解消できなかった為、再婚には至りませんでした。その後、その男性が余命3か月の癌を患っていたことがわかり、身内には大反対されましたが、敬愛する人の為との思いが打ち勝ち、共に病気に向き合い頑張る事を決心しました。その甲斐あって、3年程生きることが許され、大切な時間を過ごすことが出来ました。亡くなるまでの前妻とその家族の事を考えますと、私たちが出会ってしまった結果において、大変寂しい思いをさせてしまい、又、大勢の廻りの方々を巻き込んで心配をかけた事において、申し訳なく思っています。 私たちにおいては、共に懸命に生き、死と向きあい頑張ろうとした事に後悔はありません。むしろ満足と感謝の思いでいっぱいです。生まれ変わる事が出来るなら、今度こそ祝福される結婚をし、良き家庭を持ちたいと願うばかりです。